「像を閉じ込めている大理石の中から、その像を解放する」
これは彼が言った最も有名な一説である。自分自身を彫刻家と呼び、
一生を彫刻に捧げて生きていこうと考えていた彼は、波瀾な約90年間の人生は画家、
建築家としても多くの人々に希望や感動を与え、認められた。絵画よりも彫刻が上で、
彫刻こそルネサンスを象徴するに相応しいもの、絵画は彫刻の模倣にすぎないと考えていたミケランジェロは、
その考えをまったく逆に説く盛期ルネサンス三大巨匠の中の一人、
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)をどのように考え、どのような関係にあったのだろうか。
ミケランジェロがフランスでのダ・ヴィンチの死を知ったときに、彼がまったく動揺しなかったことは、
静かな対立関係にあったことを物語る。
また、絵画にはじっくりと時間をかけほとんどの作品を未完成に終わらせ、
完璧主義を通したダ・ヴィンチだが、時間をかけることが技術的に難しい壁画の制作という不利な条件をのんで、
1504年にフィレンツェ政府が企画した、五百人広場のミケランジェロとの壁画対決に参戦したことも、
23歳年下の彼を意識した結果であったのだろうか。
ミケランジェロの作品には裸体が数多く登場する。彼は芸術的探究心を人間の肉体に求め、
ダ・ヴィンチと同様に人体を解剖学的にも研究していた。ことに線描を重視し、
人体を描く際にはまず正確な線で輪郭を写し取り、その輪郭線のなかで肉づけをして、立体感を出していった。
どんな小さな筋肉さえも描こうとしたために、男女を問わずたくましく威圧的なのは、彼の作品からたやすく見て取れる。
さらに、女性を描くときも男性をモデルにしていたという。
また、素描を重視したところに彼の彫刻家としての側面が伺える。
彼の描く肉体はいつまでも存在し続けるものではなく、誕生から死に至る長い経過の中で表現されている。
そこに、初期ルネサンスからの古典主義的な肉体描写をする画家のなかで、彼がひときわ異彩を放つ理由がある。
15世紀のフィレンツェでは、メディチ家を中心にプラトン研究が盛んになり、
プラトンやプロティノスの著書がラテン語に翻訳された。
美に対するプラトン的な愛、“プラトニック・ラブ”によって人間は神の領域に近づくことができると考えられ、
新プラトン主義の思想は、ルネサンスの文芸・美術にも大きな影響を与えた。
ミケランジェロは、肉体を魂の牢獄と見做したように、このような新プラトン主義の考えに強く共鳴したとも言われる。
またフィレンツェ生まれの詩人ダンテ(1265-不明)にも強く影響を受け、
晩年の大作、最後の審判は「神曲」の地獄編をイメージしたとも言われている。
晩年期の作品に見られる、激しくねじ曲げられた身体のリアルな動き、今にも動き出しそうな躍動感、
人体に宿る魂、内面性を描き出す力強い洞察力などは、
ルネサンスに続く時代の様式であるマニエリスムの線描第一主義・超絶技巧・神秘感、
さらにはバロックの動静劇的表現は、ミケランジェロの表現から発しているといって良いほど、その存在と意味は大きい。
一生独身を貫いたミケランジェロであったが、その理由は多忙だったためか、同性愛者であったためか、
はたまた法王クレメンス7世(1479-1534)との約束であったのか、真実は未だに秘められている。
ミケランジェロが愛を語るとき、その愛は欲情の愛とは別のもので、男女を問わず人間だけではなく、
動物、植物、自然すべての美しいものに対してであったと言う美術史家も多い。
また、彼の人生を彩る唯一の女性ヴィットリア・コロンナ(1492-1547)に、
数々の愛の詩なるものが贈られていたことも真実として記録に残っている。ミケランジェロは殊に父を尊敬し、
出来の悪い4人の兄弟、特にリオナルドには何百通もの手紙を送り、何回も金銭的に援助し、
結婚の相手選びから何から何まで面倒を見た。
残された数多くの手紙や、日記、詩などからは、ミケランジェロがイタリアの政治に深く関与していたことが伺える。
逃亡を繰り返し、卑怯者と呼ばれ続けた長年の苦悩、いつでもメディチ家やローマ法王の人々に振り回さ90年間働いた疲労、
愛するものを次々に失う悲劇、彼の人生は、決して平坦なものではなかった。彼の人生は奴隷そのものであった。
常に芸術と隣り合わせに生きた彼にとって、人生はどのようなものであったのだろうか。