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~美術史学~
【宗教改革の発端】

 11世紀から13世紀にかけて8回に及ぶ、聖地エルサレム回復のための十字軍の遠征の失敗、 カトリック教会の腐敗によって、次第にローマ教皇の権力は低下していった。14世紀フランス王フィリップ4世の時代、 フランス王国は脆弱化していたローマ教皇を上回るようになり、その勢いに乗って教皇庁をフランス、アヴィニョンに 移した。ところが歴代の教皇はそこで贅沢に暮らしていたため、財政難は免れることは出来ずに「免罪符」の 発行が実施される。「免罪符」は、日常生活などで犯してしまった罪を、お金を支払うことによって償うという、 キリスト教の基本的な考えとして定着していった。ところがイギリスとフランスでは、国内の教会への献金が 減るのを恐れて、ローマ教皇に対して「免罪符」の販売を拒否した。自動的にターゲットは、神聖ローマ帝国の 中心でもあるドイツへと向けられる。こうして教皇庁には大きな額の資金が流れていった。

だが何故、ローマ教皇はそんなにもの巨額の資金が必要だったのか?原因は本当に贅沢に暮らしていただけなのか?

...違う。明らかに原因は他にもあった。一つに十字軍の派遣費用に想定以上の資金がかかり、その後始末に 追われていた。この後始末に、「免罪符」で集めた資金の約70%が当てられていた。一方、教会の建築や伝道、慈善事業 などの宗教本来の経費は、わずか7%にしか満たなかったのだ。
 人々はそんなこととも露知らず、“金と引き換えに天国へ行ける”という、ローマ教皇側が でっち上げていたキャッチフレーズを信じきっていた。 そこに救世主のごとく登場するのが、ドイツのスーパー知識人、マルティン・ルターなのである!


【ルター】 (1483-1546)

 ドイツ、エアフルト大学で学び、アウグスティーヌス隠修道会の修道士となったルターは、ヴィッテンベルグ大学 から神学博士を授与され、そこで教鞭をとっていた。福音主義であった彼は、この腐敗しきったローマ教皇の言動に 異を唱え始め、「95か条の論題」と題した論文を提出、たちまち農民などに広がり共鳴を得る。これに対して焦りを 感じたローマ教皇庁は、ルターを弾圧しようと時の皇帝カール5世に要求した。しかし教皇側が求めた主張撤回に ルターは拒否を示し、教皇レオ10世からの破門、ついには帝国追放をくらう。 逃亡同然で姿を消し選帝侯フリードリッヒにかくまわれながら、ルターは秘かに聖書をドイツ語に訳していたのだ。 この様にして西方教会は分離をはじめ、

“プロテスタント” = 抗議する者 = 「福音主義」

と呼ばれ、ひとつの派閥として成長していった。やがてはヨーロッパ北部ではプロテスタント、 南部はカトリック中心として、それぞれ信仰を深めていく。 ちなみにルターは美声の持ち主で、賛美歌を創始したのは彼であった。


【カルヴァン】 (1509-1564)

 カトリック教徒としてフランスに生まれた彼は、ある日突然の回心を経験した。法律、神学を学んだ後ルターに共鳴し、 1533年にプロテスタントになる。彼の名を世に知らせた著書「キリスト教綱要」は、その議論の必要性から 数回にわたって改定され、初版本は相当な分量になったと言う。 彼の追随者はユグノー教徒(フランス)、ピューリタン(イギリス)と呼ばれている。


【英国国教会】

 初期キリスト教会は、歴史と共に分離していった。東方教会、西方教会、そこからローマカトリック教会、 東方正教会、プロテスタント、そして英国国教会と枝分かれしていった。
 教皇クレメンス7世の時代、イギリスのヘンリー8世は教皇に、カトリックでは タブーとされていた離婚を申し出た。このイギリスの王は、離婚や死別によって何度も妃が変わっていったことで有名な王である。 ヘンリー8世はルターの宗教改革を批判する熱心なカトリック信者ではあったものの、 この離婚・再婚問題によって教皇クレメンス7世と対立していった。 ならば!と、1534年に自ら「英国国教会」を創設し、自身をイギリス国教会の最高首長と称して ローマ・カトリック教会から離脱したのだ。



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